8月、平和のつどいを開催しました

  • 2017.09.12 Tuesday
  • 11:13

川崎市中原区の建設組合 中部建設組合の詳細はコチラ

 

9月に入って急に秋めいてきたなと感じる今日この頃です。

 

8月は酷暑でもありましたが、雨が多かったのでなんとなく

 

『残暑厳しくなるのだろうな』と思っていましたが、予想に反して

 

9月に入った途端に秋の風が心地よいですね。

 

昔は『今日30度超えるらしいぞ!』と大騒ぎだったのが、

 

最近は簡単に35度を超えてくるので、

 

真夏は本当に国外逃亡したくなります。

 

しかし、秋になったら(雨さえ降らなきゃ)涼しい風が心地よく

 

日本の秋は世界一だな〜と思ったりします。

 

8月はヒロシマ・ナガサキがあって、終戦というか敗戦というか

 

記念日が15日にあります。

 

ただ、この終戦(敗戦)記念日というのも、日本が降伏文書に調印した

 

9月2日の方を、

 

「本当に戦争終結した日」と捉えるべきだという声もあります。

 

戦争は相手がいないと出来ないので、

 

お互いに「もう辞めようや」となったのが

 

9月2日のミズーリの上で調印だから、結構説得力あります。

 

日本は8月15日に「もう無理!」と天皇がラジオで発表したので、

 

多くの国民(当時は臣民ですが)にとったら「終わったー!」と

 

悲喜こもごもになったのは9月2日でなく、

 

8月15日なので8月15日を

 

「終戦記念日」とするのも自然な気がします。

 

今も僕たちが「あれから何年だな」

 

と戦後を数えるのは1945年8月15日を起点としているので。

 

 

 

日本の国体(天皇制)護持を考えてきた人たちから見れば、

 

9月2日だと降伏文書に調印「させられてる」感じが出まくるので

 

非常に都合が悪いというのもあったのでしょう。

 

あくまで国体である天皇が主体的に戦争を「終結させた」という方が

 

なにかと都合が良かったのだろう。

 

 

とにかく、8月になると広島や長崎に原爆が落とされた事を思い起こし、

 

酷い戦争をやったことを思い起こし、全国で平和を祈念します。

 

テレビや新聞でも戦後や戦争を特集して、

 

全国的に8月初旬から中旬にかけて戦争や平和について考え、

 

祈るという時期ですね。

 

毎年こういう時期があって全国的に平和や戦争についての情報があふれる

 

というのは、実は結構大事なことなのではないかなと思います。

 

 

 

8月じゃないけど一昨日やっていた

 

NHKスペシャルの「沖縄と核」という番組は素晴らしかったです。

 

アメリカの喉元のキューバにロシアがこっそりと核を置いていた様に、

 

ロシアや中国の喉元の沖縄に1300発もの!!核を配備して、

 

あわや那覇が無くなるかというような

 

事故まで起こしていたということが報道されていました。

 

日本は一貫してずーっと、

 

沖縄を本土に都合がいいように使ってきたんだなと

 

いう事がよく分かりました。

 

 

 

季節のあいさつから脱線しまくり、もはや線さえ見えなくなってきましたが

 

毎年、僕たちの組合の加盟連合会である

 

川崎建設労連が開催する平和のつどいに

 

ついて今日は記そうと思って、ブラウザを立ち上げたのでした。

 

今年の平和のつどいには、

 

神奈川土建逗子葉山支部の委員長の眞喜志(まきし)さんと

 

いう方に来ていただき、戦争体験を語っていただきました。

 

眞喜志さんは、ご高齢ながらも土建組合の活動を精力的にされていて、

 

お会いすると、いつでもとても丁寧に相たいしてくださる方です。

 

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉が浮かんでくるとても素敵な

 

方です。

 

今年の神県連大会の平和分科会で眞喜志さんの戦争時の体験を聞かせて

 

いただき、ぜひ時間をとってお話を聞きたいし、みんなにも聞いて欲しい

 

と思っていたので、今回平和のつどいにご参加いただけるようになり

 

とても嬉しく思いました。

 

 

沖縄出身の眞喜志さんは、戦争中はサイパンへ家族で移住していました

 

沖縄(琉球王朝)は明治政府や薩摩に富を奪われ、とても貧しく

 

多くの沖縄県民が生活のかてを求めてサイパンへ移住していました。

 

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「サイパン島について」

日本が統治を始めたのは1922年頃(中略)

1941年(昭和16年)のサイパンの日本人数は約48,000人

1943年〜44年にかけては女性や子どもたち、65歳以上の男性に強制引上げが

命令されたが、時はすでにおそく引上げ船は次々と潜水艦に沈められたため、

この命令は早々に打ち切られ島には約22,000人の一般人が取り残された。

 1943年9月、大本営は絶対国防圏を設定し、サイパン島は最前線の重要拠点と

なっていた。軍は、44年5月から第31軍と海軍第5根拠地帯を配備し、

陸海軍43,000人の兵を北部地区、海軍地区、中部地区、南部地区に分けて

投入した。

 米軍はサイパン島への本格的な攻撃を44年6月11日、180機の空爆で始めた。

翌日には480機、翌々日には艦砲射撃が加わり、14日までの4日間で3,500t

の爆撃が投下された。15日に上陸、激しい地上戦が始まった。日本軍は局地的な

攻撃に終始し、米軍の圧倒的な戦力の前に敗退を続け、住民を巻き込む悲惨な

戦いとなっていった。

 島の北部に追い詰められた7月6日、日本軍の最高指揮官ら3人が自決し、7日の

「バンザイ突撃」といわれる最後の攻撃で実質的な戦闘は終わった。

 サイパン島の悲劇は日本軍の「玉砕」だけにとどまることはなかった。

孤島と化し逃げ場のない小さな島では一般住民もたちまち戦場に

巻き込まれてしまった。洞窟に隠れて飲まず食わずの生活が続いた。

ついには小便や海水まで飲んだ。苦しがって子どもが泣き出すと日本兵が家族の前で

虐殺した。手りゅう弾を持っている者は家族で「自決」した。

断崖から身を投げて全滅する家族もあった。マッピ岬のパナデル海岸には

一家全滅の死体が散乱していた。

一般住民は両軍の谷間に追いつめられ、そこに地獄絵が繰り広げられたのである。

   

(引用 池宮城けい 2016 『おばあちゃんのバンザイ岬』巻末資料) 

 

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サイパンが戦地となった当時、眞喜志さんは1歳半で、

 

生後1か月ほどの妹さんがいたそうです。

 

親は子どもたちを連れて逃げ回りました。

 

壕に入ろうとしたが壕の中には日本軍がいっぱいいた。

 

子どもが泣いて敵に見つかることを恐れた軍隊は

 

「壕に入りたいなら子どもを殺してから来い」

 

と言って入れてくれなかった。

 

 

食べるものも無く逃げ回り、

 

とうとう50メートルはあろうかという高さの崖から

 

飛び込むしかないというところまでいった。しかし、いざとなったら

 

人間そうそう死ねるものではない。崖の上にいたところを敵につかまり

 

捕虜になった。生き残ったのが奇跡だと思える。

 

 

 

引上げ船で着いたのが浦賀港(三浦)だった。

 

沖縄には帰れない。(逗子に難民キャンプのようなものがあり)

 

逗子に住み着くことになった。

 

戦後は、差別と貧困との闘いだった。

 

どこに行っても『沖縄・朝鮮お断り』の張り紙がある

 

仕事がない。

 

父親は貧しい中でがむしゃらに働いて、46歳で亡くなった。

 

父の葬儀の時の叔父の言葉が忘れられない。

 

「チキショー兄貴は戦争と貧乏に殺されたんだ!」

 

一晩中泣いていた。

 

 

 

いま、軍靴の音が聞こえる様な時代になっている。

 

日本は、唯一の戦争での被ばく国なのに核兵器禁止条約の採択に

 

欠席をした。国連の日本の席には折り鶴が置かれ、

 

「ここにあなたがいてくれたなら」と書かれていたそうだ。

 

『こんな国でいいのか!?』

 

こんな国でいいのか、と思う。

 

 

 

眞喜志さんは30分ほど体験を語られました。

 

とてもまとめ切れないのですが、静かな語り口の中に多くの

 

思いを感じました。

 

「政治の一番の仕事は戦争を起こさない事だ」と言われます。

 

相手が不条理だ、向こうが悪い!とこちらがどんなに思ったとしても、

 

対話で解決ができなければ、後はドンパチやるしかなくなってしまいます。

 

ドンパチやった時に、犠牲になるのは私たち庶民です。

 

つい最近読んだもので、「熱狂的になる事が一番危ういことだ」

 

とありました。国民が熱狂的になってしまいヒートアップしていくことで、

 

敵対関係をどんどん深めていってしまうのだろうと思います。

 

 

 

極限まで敵対関係が深化した時に必要なのは、母性や教養だと

 

磯田道史さんが言ってました。

 

 

例え敵対しても、絶対に対話で解決をしていくんだという決意が

 

必要なのだと思います。

 

簡単ではないだろうけど、

 

「みんな地球の子どもじゃん」と言えるような、お互いを尊重しあう

 

ような教養を身に着けていくことが、これからの子どもたちにも

 

私たち大人にも必要な学びなんだろうなと思いました。

 

 

長崎で行われた原水爆禁止世界大会に、組合から青年部長が

 

家族で参加しました。

 

小学6年生の娘さんがこんな感想を記してくれました。

 

「どうしてこんなことが起こってしまったのだろうか、

 

 どうしたらもう二度と同じことが起きなくなるのだろうか」

 

 

 

 

どこの時点で止めることができたのだろうか。

 

どこでどうすれば、こんなことが起きないで済んだのだろうか。

 

残された歴史の中には、その答えが隠れています。

 

その答えを見つけ出すことが学びなのかもと思いました。

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